4. 質問など
メモ用
事前にいただいた質問とあらかじめの回答
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虚構世界を描くフィクションの条件は? 虚構世界上の事柄を描くという意味でのフィクションは、「文字通りの事実を聞き手に伝えるためにその内容を使っているか、ある虚構世界上の色々な事柄を受けてに想像させるためにその内容を使っているか(pp.39-40)」どうかでフィクション以外と区別できる書いている。つまり、「フィクション」であるか否かを決めるのは「創作者の目的」であるのか?できるだけリアルなシチュエーションを再現したもの(例えば、リアルな飛行機操縦を模擬する「Microsoft Flight Simulator 2024」)は、この意味でのフィクションといえるのだろうか。
『クリティカル・ワード』pp.39-40
フィクションの標準理論だとおおむねそういう考え方をします。『ビデ美』6章でも書いていますし、その他いろんなところで書き散らしていますが、以下のスライド(2節)がわかりやすいと思います。
「創作者の目的」という言い方だと意図主義になると思いますが、意図主義をとるかどうかはオプショナルです。慣習主義でも同じ話はできます。
リアリズムの程度はフィクションか否かに関係しないです。フィクションの認知的価値の程度には関わりますが。
ついでに、"realistic"の意味で「リアル」という語を使うのはやめることをおすすめします。
3
「インタラクティブなフィクション」という語における「インタラクティブ」の意味 ビデオゲームが持つフィクションとしての独特さを「インタラクティブなフィクション」として特徴づける議論が紹介されているが、ここでの「インタラクティブ」はどのような意味で用いられているか?『クリティカル・ワード』第一部第七章では、インタラクティビティを「制御とランダムの中間地点(p.90)」と説明しているが、これと同じ意味で使われているか?特にランダム性は、虚構世界の出来事を自分の行為の結果として想像するために、必ずしも必要でないように見える。
『クリティカル・ワード』pp.40-41、pp.88-95.p.240.
素朴に言えば「プレイヤーの行為次第でその世界の中で何が起きるかが変わりうる」くらいの意味です。詳しくは『ビデ美』6章を読んでください。
スマッツの「制御とランダムの中間」の条件は、少なくともインタラクティブなフィクションの定義をする際には不必要だと思います(その条件を入れると反例が多数出るというわけでもないと思いますが)。
4
「インタラクティブなフィクション」と「ルールとフィクションの複合体」の違い ビデオゲームのフィクション研究には、ビデオゲームを①インタラクティブなフィクションとして見る方向性と、②ルールとフィクションの複合体として見る方向性があることが紹介されているが、この2つの方向性にはどのような違いがあるのか?『ビデオゲームの美学』の内容も含めて考えると、プレイヤーの行為の存在論的レベルでどう捉えるかが違うように思われる(インタラクティブなフィクション説は虚構的な行為として、ルールとフィクションの複合体説は現実のルールへの操作として捉える)。見解を聞きたい。
『クリティカル・ワード』pp.40-41、p.240.『ビデオゲームの美学』pp.274-276
①②は相反する見方ではないです。①の代表格であるタヴィナーも②の話をしています。
『CW:GS』内で対比しているのは、①②の違いではなく以下の違いです。
(a) ビデオゲームにおけるインタラクティブなフィクションとしての面をより重視する立場
(b) ビデオゲームにおけるルールおよびそれが生み出すゲームプレイの面をより重視する立場
行為の存在論が関わるかどうかはともかく、どういう遊び方を好むかの違いではあるでしょうね。
5
「現実的な」利害に結びつかないという意味のフィクション 「ゲームや遊びは、少なくとも典型的には、「現実的な」利害に結びつかない傾向にあると言われる(p.37)」という記述があるが、この意味は「ゲームや遊びは利害をもたらすことが少ない」ということか、あるいは「『現実的な』利害とは別に、『フィクション的な』利害がある」ということか?(参考例:『オーバーウォッチ2』のランク報酬スキン、『ポケモン』シリーズのふしぎなおくりもの、「ラブプラス+」のAR記念撮影スポット、「ポケモンGO」の死亡事故)
『クリティカル・ワード』pp.38-39
まずこの話題を考える際に「フィクション」という言葉は使わないことをおすすめします。不適切かつミスリーディングなためです。
詳しくは『ビデ美』7章をはじめ関連文献をいろいろ読んでくださいとしか言えませんが、「自己目的性」や「利害関心からの分離」や「取り決め可能な帰結」の正確な特徴づけはけっこう難しいです。
ひとまずの個人的な見解とては、日常生活に直結するような利害関心のネットワークがまずあり、そのネットワークから相対的に切り離されたものとしてデザインされている(実際に何らかの現実的な帰結が生じるかどうかはともかく)というくらいの、程度問題だろうと思います。
『ビデ美』の議論とおおむね似た方向ですが、グエンも『Games: Agency as Art』の中でスーツの議論の延長として自己目的性の特徴づけを試みていますね。
ちなみに死亡事故があったという事例は、この件に関係ないです。フィクションの制作プロセス(映画の撮影やマンガの執筆の過重労働)やエクストリームではない普通のスポーツにおいて人が死ぬことがいくらでもあるのと同じです。
これはむしろゲームの「安全性(safety)」という言い方で論じられることがある問題ですが、自己目的性とは別の話題と考えておいたほうがよいです。
9
ビデオゲーム作品の存在論とフィクションについて ビデオゲームはフィクションの側面を押し出すことが特徴と書かれているが、フィクションはどこまでビデオゲーム作品の存在論の基盤になっているか?『The Routledge companion to video game studies』にてタヴィナーは、ビデオゲームにとってフィクションは副次的であるというユールの主張に対し、ゲームメカニクスの理解にフィクション的要素が必須である(マグマ→熱い→ダメージ食らうなど)ため、フィクションは作品の存在を基礎づけていると主張した。しかし、FGOはゲームルールを理解するためにあまりフィクションが必要ではないが、フィクションが違うものになればもはやFGOではないという直観がある。このとき、フィクションはFGOという作品を存在論的に規定していると言えるか?
『クリティカル・ワード』p.40、『The Routledge companion to video game studies』より、53 Fiction(pp.434-441)
ルールの理解・伝達にフィクションを経由させることには一定の合理性があるでしょうが、それはどう考えても「必須」ではないですね。なぜそう言えるかについては『ビデ美』5章および8章の関連する箇所を読んでください。
一方で、あるひとつのビデオゲーム作品の同一性を考えたときに、フィクションの側面はその同一性条件に含まれるのが実践上普通だと思います。言い換えれば、ビデオゲームの場合、仮にルールがまったく同じでもフィクションが異なれば、異なる作品になる(のが普通)ということです。
というわけで、タヴィナーの主張を前者(フィクションとルールの関係の問題)として解釈すると変なことを言っていると思いますが、後者(作品の同一性の問題)として解釈するとまともなことを言っていると思います。
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フィクションと現実に関して "『2.ゲームはフィクションなのか(pp. 36-42)』において、「ゲームの世界は「非現実」すなわち「虚構の世界」なのか?(p. 36)」という問いを、「フィクション」という語を定義することで論証を行なっているが、「フィクション」をそれ単体として定義することはどこまで可能なのか?フィクション、つまり非現実は「≠現実」であると言える。そこにおいて、そもそも我々が「現実」だと信じているものは一体何によって定義されうるのか?
我々の知覚は、それぞれ自分の目の前にある事物を自分が解釈したいような形で捉えていると言える。そのように考えると、私たちが現実だと信じているようなものは実はフィクション的なものであると言うことができてしまうのではないか。
『クリティカル・ワード』、『2.ゲームはフィクションなのか (pp. 36-42)』
まず定義はしていませんし、それにもとづいた論証もしていません。単純に多義性を整理しているだけです。
ビデオゲームがフィクションとしての面を持つかどうか、どの意味でのフィクションならどういう答えになるか、ということを考える上で「現実とは何か」という問いを厳密に論じる必要があるとは思えません。
「私たちが現実だと信じているようなものは実はフィクション的なものであると言うことができてしまう」というのはバークリー流の観念論やデカルト流の懐疑論の話題でしょうか。そういうのに関心があればその方向の勉強をされればよいと思いますが、ゲームスタディーズの論点にとって何か益のある話題ではないと思います。
一般論として、懐疑論は人間の理性的思考のバグなので、懐疑論に陥りそうになったら問いと思考の抽象度を下げる(あるいは問いと思考を常識方向に矯正する)という意識を持つとよいです。これは哲学的思考をする際のテクニックと言っていいと思いますが、比喩で言えば、「大けがを避けるために受け身の取り方を学ぶ」というのに近いです。